单项选择题

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  新人類なる名称がある。もっとも、新人類などという人類の学問的な規定はどこを捜しても発見できない。実際、この名称は、定まった「定義」が存在しない。

  また、何事もそうであるが、特定の世代をとらえて一つの尺度で測るのは、大いに危険を伴うものである。新人類と言われている世代には、ある意味では私たちが体験してきた強烈な時代的なインパクト(烙印、冲击)は存在していないのである。新人類の世代には受験戦争があるというかもしれぬが、そんなものは昔から通過せざるを得ない学生時代の体験であって、格別、今の若者に厳しいわけではあるまい

  つまり、強烈な世代体験のない世代を昔の強烈世代パターンで、一緒にくたにする(混为一谈)にはいささかの疑問を持たずにいられない。一方、時代を共有するほどの強烈な時代のインパクトを持ち合わせない(不共同拥有)ことは、個人的な人生観の選択肢の多さを、意味することになるのではないだろうか。

  大体、若い時期は未熟なため、当の本人が、自分を十分に理解しているかどうか大いに疑問だ。自分をある程度わかるようになった人間のことを今は旧人類とか、オジン(小老头儿)とか言っているのではないだろうか。

  そして、もうひとつ。日本のように変革を志向しない国民性、安定志向性の強い国において、果たして新人類と呼ばれるに値するような極端に価値観の異なった世代が、忽然と発生するであろうか。そうではなく、むしろ「新人類は旧人類のコピー」ではないのだろうか、と考えるのである。

  ( ア )、新人類は指示したことは文句なくやるものの、それ以上のことは余りやろうとしない、と一般的に指摘される。そこで考えてみると、若いときには概して余り気配りができないもの、権利意識はあっても義務意識に欠けるとか、言われ続けてきたものではなかっただろうか。

  「ほうれんそうが会社を強くする」などとも言う。ほう告れん絡そう談しましょう、というのである。こうしたコピーが、流行るところに既に指示待ち社会としての組織文化が氾濫しているのではないのか。「ほうれんそうしましょう」などと、眞面目に語っている会社は恐怖である。こんな当たり前のことが必要に応じて展開できていないから、いい大人に向かって、こんな発言をしなくてはならないのだろう。幼稚園の子供にマナーを教えるようなものだ。そうした指示待ち社会の実相を入社以前に、就職情報誌かなんかで熟知している若者もいるかもしれない。

この文章の内容に合わないものはどれか。

A.日本社会に新人類と呼ばれる人たちはまったく存在しない。
B.新人類は指示したことをやるが、それ以上はあまりしない。
C.新人類と呼ばれる世代は突然に生まれてきたわけではない。
D.日本の国民性は安定志向が強く、変革志向のない特徴がある。